経済と民主党の関係性。

アダムスミスと民主党の関係性。

その結果、二○○九年以降の労働は共和党の 「個人の自由」優先の政策から、民主党の「公共の利益」優先の政策に転換していくものと思われる。 これは労働にとっての福音であろう。 さて、ふたたび私の経験談に話を戻すことを許していただこう。 一九七四年に帰国し、教壇に立つことになった私はハーバードで叩き込まれた近代経済学,中 でも「マーケット・メカニズムのすばらしさ」を学生たちに熱心に教え込もうとした。また、それ と同時に、日本がマーケットをいかに有効に活用していないか、日本がどれだけ規制と保護主義 に守られた「閉ざされた国」であり、政治面では「政・官・業」の鉄の三角形が社会をだめにしている かを説き、それゆえに、これからの日本経済発展のためには、構造改革と規制撤廃、市場開放が 不可避であると主張しつづけた。

 

アダムスミスが指摘する経済学

 

どんな点に「うさんくささ」を感じたのか。それは第一に、その前提があまりにも個人主義的で ある点ではなかったか。 たとえば、アダム・スミス以来の経済学では、人間を「ホモ・エコノミクス(経済人ごとして定義 する。すなわち、近代経済学に登場する人間は、自らの満足を最大化する目的を持って合理的に 行動する存在であり、「社会」という概念は入り込む余地がない。社会がどうあるべきかに関して は、マーケットが最適な資源配分を実現するという観点が提示されているのみであり、所得分配 や最適な公共財の供給などは投票によって決めればよいとしているのみである。どのような所得 分配が「正しい」とか、どの程度の公共財が供給されるべきか、どのような社会が人を幸せにする かなどといった主観が入り込む問題に関しては一切、価値判断をしないのである。

 

 

個人は社会とは独立したアトム的な存在であり、こうした利己的な経済人がそれぞれ自分の満 うであった。私は「近代経済学ほど論理が明快きわまりない学問はないのに、なぜ日本人学生は こんなに物分かりが悪いのだろう」といぶかった。 足や利益を最大限にすべくマーケットに参加することで、「見えざる手」が働いて資源の最適配分 が行なわれるというのが、近代経済学の基本テーゼなのである。 しかし、常識で考えればすぐ分かることだが、人間は何も自分の利益のためだけに生きている のではない。むしろ、人間にとってより重要なのは自分の行為が社会的に評価されるかどうかと いうことなのである。仲間を蹴散らして自分だけが金銭的に成功しても、そこから得られる満足 は、仲間とともに苦しみ、共通の目的のために奮闘し、その目的がかなえられた場合の満足に比 べれば、おそらくはそれほど大きなものではないであろう(もちろん、個人差はあるだろうが)。 過去の日本を見ても、江戸時代の武士は経済合理性などでは生きていなかった。「武士は食わ ねど高楊枝」とやせ我慢をし、それが心意気だと感じるのが武士道である。